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観光遊歩道東回りコース船着場から灯台まで1km島で唯一のお寺「観栄寺」最盛期には、山頂まで段段畑がありました。島の気候は、きわめて温暖です。真冬に「エンドウ」の花が咲き、「ハイビスカス」や「ハマユウ」な....

観光遊歩道東回りコース船着場から灯台まで1km島で唯一のお寺「観栄寺」最盛期には、山頂まで段段畑がありました。島の気候は、きわめて温暖です。真冬に「エンドウ」の花が咲き、「ハイビスカス」や「ハマユウ」などの亜熱帯植物も、多く自生しています。観光遊歩道中央コース船着場から灯台まで1km標高76.6m の山頂にある「出羽島灯台」、38km 先まで光が届きます。観光遊歩道西回りコース船着場から灯台遊歩道の展望台にあるまで1.8km大岩「蛇の枕」には、大池に住む大蛇が、枕にしていたという伝説があります。「ワシントンヤシ」「出羽島小学校跡地」明治15 年に創立された小学校も、現在は体育館が残るのみです。災害時には、避難場所になります。町並みビューポイント「ヘリポート」「発電所跡」昭和29 年から41 年まで、自家発電で灯火していました。「阿波沚発見者   功績の碑」島の貴重な水源だった「共同井戸」がある谷川には、町指定天然記念物の、「カニクイ(オオウナギ)」が生息しています。「タスカルタワー」デイサービス「島の家」「出羽島簡易郵便局」「港(ハマ)」昔は、大生毛と 呼ばれていました。「石積みの大波止(堤防)」海岸の丸石などを建材として、明治4年頃に構築された、歴史的な遺産です。アジ、グレ、アオリイカなどが釣れますよ。「すばな(州鼻)」干潮時には、丸石が波で打ち寄せられた、州が現れます。連絡船「大生丸」牟岐の町と出羽島を結ぶ連絡船。大正末期頃までは、櫓こぎ船の郵便船が、一日一往復していました。「出羽島漁村センター」 横には「蛭子神社」「出羽神社」「出羽島診療所」出羽島は、牟岐港から南3.27km の沖合に浮かぶ、周囲4km のとても小さな島です。古くは「手波(テハ)」「出波(デハ)」とも呼ばれていました。寛政12 年(1800 年)に、阿波藩の命で、牟岐浦庄屋「青木家」他、5軒が移り住んだのが集落の始まりだといわれ、その後の漁業の繁栄とともに拡大し、昭和初期に、現在のような集落がほぼ形成されました。風による被害を避けるため、民家の軒高は低く、いぶし瓦の屋根と、一様にそろった軒先の連なりが、とても印象的です。明治期から昭和初期の建物も多く、これだけまとまった漁村集落が残存する例は、大変珍しいといわれています。「野口雨情の歌碑」     「七つの子」「赤い靴」    などで知られる童謡詩人 「野口雨情」が出羽島を訪れたのは、昭和11年の2月でした。雨情が残した15 節の歌は、「牟岐みなと節」 として、今も広く  親しまれています。船で廻れば出羽島一里、島にゃ大池蛇の枕?♪「島番」として、初めて人が移り住んだのが、ここです。ここから集落が始まりました。二番目に移り住んだのが、ここだといわれています。   出羽島の民家の特長として、   「ミセ造り(蔀帳)」があります。ミセとは、折りたたみ式の板戸(雨戸)で、上ミセと下ミセに分かれています。下ミセは、縁台や漁具の手入れをする、作業場として日常的に使われています。(下ミセのみもあります)感動的な機能美です。海岸に堆積した丸石に守られた「大池」には、1億4千万年前に繁栄した、貴重な藻類「シラタマモ」が国内で唯一、自生しています。「大島」「津島」超eco!   島には、今も「自動車」が無い  ため、歩行者専用の「みち」しかありま せん。そのため、物資の運搬に欠かせないのが、ネコ車(手押し車)です。昔、女性にとって重労働だった、共同井戸からの水汲みに、  大変役立ったといいます。意外と カワイイ国指定天然記念物連絡船発着場おいけおいけあわはえおいけぶちょうレトロアイランド「未来に残したい漁業・漁村の歴史文化百選」の島阿波沚発見者功績の碑、石積みの防波堤/水産庁選定 出て羽ば島じま散策絵地図絵地図/小部 博正あわはえ